こんにちは。
福井県敦賀市 イワイガラスの5代目 岩井達也です。
前回の5代目の自己紹介①の続編です(^^)
だからおめーの歴史に興味はねぇよって方は飛ばしてくださいね~。
興味持っていただけた方は1話からからどうぞ(笑)
今回は高校生編です。
敦賀高校野球部時代
もうね、見出しから分かるとおり生活のメインは野球です。勉強した記憶はほとんどありません(笑)
「敦賀高校時代」じゃなくて「敦賀高校野球部時代」なんですね。
僕らが中学校2年生のときに敦賀高校は甲子園に出場しました。
それまでは同じ進学校の美方高校(ちなみに父は美方高校野球部OB)と敦賀高校で迷っていましたが、この甲子園出場で完全に敦賀高校へ行こうと決めました。
父の言いつけを守って勉強はしっかりしてたので入試は楽勝。
そして伝統ある敦賀高校野球部に入部。
入部する数年前に甲子園に出たということもあり、1つ上の先輩の代も僕らの代も20名近い部員がいました。僕が在籍していた3年間は大体40〜50人のチームでしたかねー。
一昔前の高校野球というと、水も飲めない、休みもない、今で言うブラック部活って感じですよね。ラッキーなことに僕らが入部した春に敦高野球部は練習中に水を飲んでもOKになりました。ですので『練習中に水も飲めない』という時代は経験していません。
それでも基本的に1週間に休みはなくて、土日は朝から晩まで練習や練習試合。とにかく量の多い練習を毎日していました。(大学行ってこのようなスタイルが時代遅れなんだなと実感します。それはまた次回書きますね)
鉄拳制裁などはもうほとんど無い時代でしたが、理不尽はたくさんありましたよ(笑)
今じゃ問題になるんでしょうけどね~。説教とか(笑)連帯責任で走らされるとか。
あ、あんまりこの辺書いちゃうと、よくなさそうなんで(笑)やめときますね。
大学野球に興味を持つ
そんな理不尽だらけの1年生の時の思い出はあまり無いんですが、高校2年生の時に赴任してこられ野球部の副部長として指導していただいた先生に衝撃を受けます。
早稲田大学の硬式野球部出身で、今でもプロ野球の第一線にいる選手がたくさんいる顔ぶれの中でサードのレギュラーだった先生でした。 その当時で僕は6~7年野球を続けていましたが、この先生に教えてもらうことが全て新鮮で、日に日にうまくなるのが実感できました。それまで辛いと感じていた毎日の練習が楽しくて仕方ありませんでしたね。
小学校4年生で野球を始めましたが、初めてキャッチボールを細かく理論的に教えてもらいました。
この写真は僕が高校2年の合宿の時に、先生が大学生のレベルを見せたいということで、早稲田大学から比嘉寿光さんを呼んでくださったときの写真です。
先生が4年生の時、比嘉さんが1年生で同じポジションということもあり仲が良かったそうです。
このとき早稲田大学の学生コーチという役職を務められていた竹内さんという方も来ていただいています。(後に僕はこの竹内さんという方の影響を大いに受けます。)
この写真比嘉さんの後ろにいるのが僕です。
一緒に練習している風な写真ですが、とてもレベルが違いすぎて後ろで見ているだけです(笑)
先生も比嘉さんもそうですが、それまで敦賀じゃ教えてもらったことのない初歩の初歩を教えてもらった気がします。
わかりにくいですかね?
敦賀では「キャッチボールはこうだ!おれが若い時はこう教えてもらったんだ!」って言いながら、キャッチボールがレベル10まであるとしたらレベル2から教えてもらうような感じでした。
先生や比嘉さんはレベル1をさらに細かく教えてくれる感じ。
この辺りから敦賀の中だけで野球をやってても、ほんとに野球の一部をかじっただけで終わるような気がしてきて。この時は本気で家業は継がずに野球の指導者になるつもりでいたので、こんな野球の知識だけで未来のある子供達に野球を教えるのはまずい!と思うようになりました。大学まで野球を続けると僕もこうなれるのかなって。だんだん大学野球に興味が出てきました。
当時はうちの高校から大学で野球を続けた先輩が少なく、入部しても辛くて辞めてしまうっていう先輩が数人続いていました。興味はあるけどモーレツに不安!ってのが当時の正直な気持ちでしたね〜。
ちなみに、よくプロフィールを書くときに座右の銘を書くところがありますよね?
僕は2つ大事にしている言葉があるんですが、1つは高校野球の監督さんからいただいた言葉です。
鍛練千日 勝負一瞬
日々の苦しい練習や地道な努力は一瞬の勝負のためにある という意味です。
毎日毎日同じ場所で同じような練習をしていると何のためにやっているのかわからなくなる時がありますが、そんなときはこの言葉に支えてもらったような気がします。
高校3年の夏は準々決勝で敗退
自己管理が下手くそだったので何度も怪我をしてレギュラーにはなれず、甲子園出場も叶いませんでしたが多くの仲間と貴重な時間を過ごすことができた3年間でした。
今でもこの高校時代の仲間とは新年会・BBQ・忘年会と年に何回か集まります。
高校野球を引退したあと
高校は普通科に在籍していましたし、両親からも大学くらい出とけよと言われていたので高校入学当時から大学には行くんだろうな、と思っていました。
父はどこかで京都建築大学校(KASD)の噂を聞きつけ、建築士をはじめとする建設業に必要な資格が取れてしかも大学卒業と同等の扱いを受けられるということでKASDを勧めてきました。
ですが僕は高校2年生の時に出会った先生の影響で、『いつか野球をだれかに教えるなら、とことんまで野球をやって先生に教えてもらったような指導ができるようになろう』と思い両親に大学でも体育会系の硬式野球部で野球をやらせてほしいと頼みます。
当時 大学の野球部に入部した高校の先輩はいろんな事情で1年か2年目で辞めていました。
それだけ厳しい世界なんだろうなとは感じていましたが、『誰も知らない所で0から監督やコーチに自分で名前を売るところから野球をしてみたい』とも考えていました。
敦賀のように狭いところで野球をやってると、チームメートも対戦相手もだいたい知ってる顔なんですね。
そんな環境でしか野球をやってなかったので力試しも兼ねて挑戦しようと思ったわけです。
今思うと身の程しらずですね~ 笑
高校ですらレギュラーになれなかったのにそんなこと言うもんですから、両親は驚いていましたが、「わかった。思うようにしなさい」と言ってもらえました。
今でもそうだと思いますが、大学で硬式野球をやろうと思うと入部にあたっての費用、遠征費、道具代、年間払う部費など含めて学費や生活費以外で1年間に100万円近くかかると言われていました。
高校野球だけでも他の学生さんと比べればかなりの出費だったはずです。
高校生ながらに申し訳ないなぁと思いながらも、大学野球の世界に踏み込みます。
長くなってきたので続きは次回に。
読んでいただいてありがとうございました。